大学における情報処理教育、あるいは、コンピューター・リテラシー教育が消える日は目前である。しかし、情報倫理教育、すなわち、情報を利用するにあたってどのような態度をとることがよいことなのか、あるいは、その際にやってはいけないことなのかと言うことについての教育は生き残るのではないかという予想があるかもしれない。この報告の目的は、その様な意味での情報倫理教育も早晩、大学では不要とされるようになるであろうという予想を正当化することにある。
我々がよく知らなかった計算機間データ通信用ネットワークにおいてどのような行動が推奨され、 あるいは、望まれるか、また、避けるべきであり、嫌われるかということについて、1990年代、いわゆるインターネットの普及と共に議論が交わされていた。もちろん、議論の領域に達することのない、個人的処世術の開陳にすぎない発言も多かったが、そのようなものであれ、あるいは、議論の対象とあり得るものであれ、基本的には、どのように行動すれば人の迷惑にならないかということについてのアドバイスが中心であった。
このようなアドバイスは、1990年代前半の大学において重要な役割をもったといってよい。なぜならば、その時代には、ほとんど誰も何もインターネットというものが何を意味するのか、1993年以降いったい何が起ころうとしているのか、あるいは起きつつあるのかを知らなかったからである。もちろん、長いメール、例えば、500キロバイト以上の長さのメールが好まれないのは、長い文章を読ませるということが苦痛であり、それを強いることになるからではない。
それは、ネットワーク資源の稀少性を前提として、その稀少な資源の効率的な運用が重要な利害の争点であったからこその有用なアドバイスであった。もちろん、稀少かつ公共的な資源を分配するときの原則について論ずることは、倫理学の研究課題としてきわめて適切なものである。したがって、このアドバイスが、倫理的、道徳的観点からのものであるという可能性は残されていた。しかし、その前提であったネットワーク資源の稀少性は、少なくともメールの長さを問題にするようなレベルでは、数年にして全く無視できないものとなっていたのである。しょせん、その様な迷惑をかけない、嫌われないということを目的とする様々なアドバイスは、倫理的な問題、すなわち、義理や権利、行為の善悪を論じるレベルの問題ではあり得なかった。
ネットワークの上におけるポルノグラフィの掲載という問題も、別にネットワークに掲載するからポルノグラフィの猥褻性が増進されるということでもなく、ネットワークの上の行為についての責任の分配についてまだ疎かったから問題が生じたにすぎない。したがって、これとてもネチケットとしてそういう内容をネットワークに流通させるといけないという考え方は、そもそもポルノグラフィを表現行為の対象としてはいけないという考え方以上のものではない。
したがって、一般的な問題、つまり、「表現の自由」「出版の自由」という問題を除いては、ポルノグラフィに関する情報倫理的問題は存在しない。
この種の議論は、更に長く展開できる。しかし、以上を考えるならば、いわゆるネチケットについてのある種のブーム的関心は、我々がインターネットについて未熟であったからゆえの現象に過ぎいなかったことがわかる。現に今、そんなことを真剣に論じている人はいないではないか。
(以下については、講演において詳論する)